特別座談会「謙慎書道会70回記念展に寄せて」

西川イズムと青山イズム

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-- 戦後の謙慎書道会の指導理念を築かれた西川先生、またそれを継承・発展させられた青山先生の功績についてあらためて新井先生にお伺いしたいと思います。

新井光風書
新井光風書
新井 西川先生は謙慎の心の主柱でした。厳しさという点では半端ではなかったですね。まず第一に妥協という言葉は謙慎の辞書にはなかった。すべてのことについて徹底しなければ許されませんでした。教えて下さる西川先生ご自身が夢中というか一生懸命で、対する我々も真剣勝負といった気概に溢れていたように思います。とりわけ西川先生は相手がどれほど若くても、こと書に関しては同列に扱われて本当に手加減なしに話されました。ですから時間など関係なく時の経つのも忘れて指導していただきました。また僕らも師の熱情に応えることが出来たかどうかわかりませんが、必死の思いで勉強したものでした。だいたい稽古が終わって帰宅は夜中の二時、三時が当たり前で、その日に教えていただいたことをきちんと整理するまではとても寝られなかった。先ほどまでのことを思い出すと、興奮してとても眠れるような状態ではなかったですね。話は前後しますが、先生のご自宅にお伺いし、門を入る瞬間からもう自分の身体が普通ではなかったですね。不思議なもので戸を開けた瞬間に、そこの世界の空気が違っているのを感じたものでした。先生は、僕らの能力があるかないか、できるかできないかではなくて、そのようなことは全く度外視して指導をして下さいました。

  先生の思い出は数かぎりなくありますが、とにかくすべてに対して中途半端なことは許されなかったというのが一番の印象ですね。

樽本 樹邨
樽本 樹邨
樽本 青山先生は昭和38年から月に一度くらい名古屋で作品研究会を始められました。私もその時からご指導を仰いでおりましたが、先ほどから皆様が言っておられるとおり、先生の古典に対する考え方は非常に確固たるものがありました。先生の指導法は「師も弟子も、それぞれ自分に合った古典を持つ」というお考えでした。ですから僕の場合は、自分の顔がある作品を書くのは展覧会の時だけで、普段は必死に古典を勉強しました。僕は六朝の楷書が専門ですから先生流の篆書は書けません。ですから古典を思いっきり消化して心底からにじみ出るような作品を書いていました。弟子にもやはりそのような指導をしています。僕がまだ日展に入選するのがやっとという時代に社中から六人くらい入選したことがありました。今から思えば恐れ多いことなんですが、その頃は当然のような感じで満足にお礼も申し上げませんでした。先生の偉大なところは、我々の勉強ぶりや態度を鋭く観察し、努力する者は惜しみなく救い上げ、引っぱり上げて下さったことではないかと思っています。

-- 青山先生は生前、真に力のある人物なら会派や序列に関係なく抜擢されたという話はよく仄聞したところです。青山門下の中で最も若い世代の代表格として燒リ先生から何か思い出を語っていただければと思います。

燒リ 聖雨
燒リ 聖雨
燒リ 僕は昭和44年に師事しましたが、その頃は先生もあまり怖いというイメージはありません(笑)。先生の一番脂が乗っていた時代に教えていただいた、ある意味では恵まれた世代だと思っています。皆様ご承知のとおり先生は展覧会の手本をいっさい書かれませんでした。門下は自ら古典を渉猟し、自分の個性を発揮し、それに青山先生の書風とが相まって作品づくりに邁進しました。面白いのはその指導法で、作品を見せたとき先生の理にかなっていなければ、「考えなおし」の一言でお終いです。そして、我々が夜中の一時まで残って『書道グラフ』の仕事をしていたら、「今ごろ、誰々は帰りの車の中でさっきの言葉の意味を考えているよ。それが俺の指導方法なんだ」とおっしゃっていたのを思い出します。促成栽培方式なら手本を書き与えるのが一番手っ取り早いやり方です。だけど、それをせずに鍛えに鍛えて、本人にとことんまで考えさせる指導法を特に我々の時代によくしてくださったのはたいへん有り難いことだと思っています。先生が指導された槙社文会ほど篆隷楷行草すべての書体がそろったバラエティー豊かな展覧会はそうはないと僕は自負しています。それはとりもなおさず青山先生の指導力の賜物ではないかと思っています。

梅原 確かにそうですね。書としての領域が格段に広いからね。

稲垣 菘圃
稲垣 菘圃
稲垣 僕が青山先生に入門を許されたのは31歳のときですが、その頃すでに篆刻や刻字、それに陶芸など幅広くいろいろな勉強をやっておりました。先生から一番最初にご指導をいただいたのは金文・篆書でしたが、僕の目の前で全紙を横に三枚くらい継いだものに「石鼓文」を書かれたのが今でも強い印象として残っています。そのとき書かれた一枚は今も大事に取ってありますよ。

岩井 書の指導法というのは教える先生の考え方次第で変わるものであって、最終的にどれが一番良いかという点については習う人の力量や考えによって決まるものだと思います。青山先生の指導法というのは、亡くなられた成瀬映山先生、大島嵒山先生、吉田蘭処先生、松原雪邦先生、それに私なども含めてその書風にはある意味での共通点がありますが、その人の好みや方向性に応じて後ろから寄り添うようにして折々の適切なアドバイスを下されたという意味で稀有の存在ではなかったかと思っています。これは私事ですが夜中の二時頃、先生からよく電話をいただきました。出ると「書いてるか」、「はい」と答えると、「いま便所でお前のことを考えていたんだが、まだ寝ないで書いているだろうと思って電話したんだよ」。そのとき私が思ったのは、夜中に用足ししている間に僕のことを想ってくれる有り難さというか嬉しさでしたね。小躍りしてそのまま明け方まで書き続けなきゃならないという気持ちになりましたね。

  先生はよく私に「俺の眼の黒いうちは草書を書き続けろよ」と激励していただきましたが、結局、書の勉強というのは数多く書き通していく以外に上達の方法はないのだと思いますね。良い作品が出来たらいつでも見てやるぞと言われていたので、あるとき楷書の条幅など何点かを持参しました。そうしたら「うーん」と言ったきり何ともおっしゃらない。そして「もっとしっかり書け、明日の朝持って来い」と言われたので、その夜は徹夜して書きました。朝の九時頃、電話を差し上げたら奥様が出られ、「うち主人の朝はお昼ですよ。夜明けの四時ごろに寝るものですから」。それでお昼過ぎにお伺いしたことが随分ありました。ですから先生の無言の教えは、数を書けという意味だと僕は単純に解釈して、先輩方に負けないという気持ちでこれまでやってこれたのだと思います。

-- 梅原先生は青山先生から篆書・金文の指導を受けてこられたと思いますが、何か印象に残る思い出はございますか。

梅原 私は齢80歳を越えたので現在、顧問という立場にいるわけですが、青山先生のお許しが出て謙慎展に出品したのは第30回展からでちょうど40年前です。賛助会員という肩書でした。私は太玄会に所属しながらその10年ばかり前から青山先生に師事しておりましたが、なかなか謙慎展には出品させてもらえなかったのです。入会し6年後の35回展の時に西川春洞先生記念賞という破格の大賞を頂戴することになり、それによって今日に至っているわけです。青山先生の思い出はたくさんありますが、私はあまり多く叱られたことはございません。でも、先ほどから皆さんのおっしゃっておられるように、書道に関しては間違いなく厳しかった先生で稽古が終わって外に出ると思わず「ふぅー」と溜め息が出たものです。それにしても愛情を持って叱っていただいた思い出は一生涯忘れられませんね。

燒リ聖雨書
燒リ聖雨書
燒リ これも青山先生の話しですが、お稽古のとき或る人の字をご覧になって、ちょうどいま俺もその字を書いているから見せてやろうと言って奥に入られた。ところが、戻って来るなり「やっぱり、やめた。お前たちに見せて先に発表されたら、俺のテナントが失われちゃうからな」と。茶目っ気があるというのか、このエピソードも謙慎全体の姿勢や指導方法を象徴しているような感じを僕は若い頃に持ちましたね。それともうひとつは、成瀬先生の話があまり出ておりませんが、成瀬先生の言葉で今でも思い出すのは「日展、読売、謙慎と展覧会はいろいろあるが、何が一番大切な展覧会かというと、謙慎に良い作品を発表しないと駄目なんだよ」とことあるごとに言っておられたことです。

稲垣 そのとおりですね。謙慎展で良い作品を書かなければ面倒はみないという姿勢は一貫しておりました。ある時期、私が日展で篆書二文字の大字作品をずっと出品していた頃、久しぶりの行草作品ということで三八サイズに五行書いた作品を持って上京したわけです。お邪魔しますとちょうど黒柳徹子さんがおられ、髄分とご機嫌がよかった(笑)。そして、黒柳さんのおられる前で僕の作品を掛けて例の指示棒で「ここが素晴らしいところだ」と三ケ所も誉めていただいた。もう僕は有頂天でしたね。これで来年の謙慎展に出せるぞと。ところが、名古屋に帰って夜中の二時すぎ、例の電話です。いきなり、「なんだ!あれは!」に始まって、あとはもう生きた心地がしませんでしたね。皆さんお笑いになりますが、そりゃもう深刻でしたよ、寝れたもんじゃありません(笑)。本当に先生の指導の激しさ、厳しさというのはずば抜けていました。入門当時、僕に向かって「謙慎は篆刻が弱いし仮名も弱い。両方とももっと発展させなきゃいかんな」としみじみ語っておられたのを思い出します。
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